町田酒造の店構えは、例弊使道の街道に、「いらっしゃい!」のあいさつをする、もてなし顔。 裏にまわると、酒つくりの現場を思わせる煙突、酒蔵などが立って、杜氏たちの越後弁や働く人たちの声が空気を沸きたたせる生活の顔。暗い路地を走り、キュウリやトマト畑を抜けると子どもの夏の水浴び場「滝川」が待っていました。 文 原 佑典
いつの間にか、私たちは空を見上げることを忘れていました。
親子で「ああ、夕焼けがきれい!」と見とれることも、なくなりました。
きっとあのころ、この煙突から出る煙を見ながら働く人の姿を思い、
雲の変化や木々の色、横切っていく鳥たちに、季節を実感したこと
でしょう。1本の煙突が、暮らしのリズム感を届ける絵である時代で
した。 文 原 佑典
路地で遊んでいて、突然正面に煙突がそびえていた、ということがよくありました。和泉屋の煙突は八幡宮の広い参道や境内を遊び場にしていた子どもたちの賑わいを見続けてきたのです。
馬車街道に通じる石垣下のせせらぎには、夏には小さな魚たちが、
冬には氷が張って、煙突を囲む木々とともに、
暮らしや遊びに四季を配色する場所でした。
文 原 佑典
新潟県北部に位置する村上市は、瀬波温泉と鮭で有名な城下町です。街に入って特別では無いのですが、なんとなく古い街の雰囲気が漂っています。市民全体がその街並みを残そうという意気込みが伝わってきます。
この建物は駅からは遠いのですが、武家屋敷などを保存してある歴史公園近くに位置し、昔から鮭の燻製やその他鮭製品を扱っており、このあたりの雰囲気の形成の中心となっています。
公園内に移築されている数軒の武家屋敷ですが、これがまた素晴らしいものです。けっして大きなものでなく、かやぶきの小さなものですが真に好ましいたたずまいで建っています。これらを建てた職人だけでなく、建てさせた地域のセンスがしのばれます。
以前東村の仕事が多かったころ、上武国道を通っていくと二之宮の信号のあたり、道から少し入った北側にこの家並みがありました。
わらぶきの母屋と赤いトタン葺きの納屋、全体がとても良い雰囲気でした。
最近通っていませんが、いまはどうなっているのか・・・・。
机を整理していたら、以前に行った信州海野宿のスケッチが出てきました。
海野宿といえば上田の市街から少し郊外に入ったところにあり、昔の街道のふぜいをよく残しています。すでに国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、その保存も町全体といった感じで、訪れる人々の多さにも驚きました。
こういった街並みが残っていることは、地域の人達の意識の高さと、ある意味経済状態が厳しかったからとも考えられます。
何れにしても長野というところはちょっとした町はずれにほっとするような昔の雰囲気を残す建物や街並みが残っており、まことにうらやましい限りです。
曼殊院門跡は京都東山修学院離宮、詩仙堂その奥にあります。
桂離宮を造った智仁天皇の子、良尚親王の造営といわており、修学院離宮、桂離宮2次造営と同時期で、影響を強く受けています。
少し高いところにある勅使門、その脇の土手、そこにある見事なもみじが印象的です。
中に入っての大書院の細い柱、低い軒、檜はだ葺きのやわらかいむくり屋根、また建具引き手の細かな意匠など、桂離宮と共通の美意識を感じます。
前の事務所では赤城村の仕事が多く、若いころ毎日のように通っていました。この地区の人達の素朴であたたかい人柄も、昔ながらの農家の家並みも気に入っていました。
中でもこの持柏木地区は古くからの農家が残る場所で、どこをとっても絵になります。ある日細い道に迷い込んでしまいうろうろしていて、この場所にたどり着き、なんともいえないいい雰囲気で本当にびっくりしました。
きれいに積まれた石垣と、その上の納屋がまた良い。積みっ放しのブロックと、木の格子、その下のモルタルの壁の模様の色具合のよさ。また奥に見える蔵の土壁の色のバランス。母屋は今は金属で葺かれていますが、元は萱葺きだったのでしょうか。
周りの棚田の畦はきれいに刈り込まれ箱庭のようです。それら全部を含めてそのままそっくりとっておきたいようなたたずまいでした。
ただそんなわけで、ここには二度と行けません。
蛍光ペンなるものが出現したのは、何年前くらいだろうか。
資料のチェックなどには便利ですよね。
ただいろいろチェックを入れすぎて、逆に分かりづらくなったりして・・・。