22日県庁昭和庁舎で、「群馬の養蚕と養蚕農家」と題して、伊勢崎市教育委員会の板橋春夫先生の講演があり行ってきました。
自分自身農家の出身で、むかし家でも養蚕をやっていたので、多少の知識はありましたが、先生の話を聞いて一気に視野が広がった感じです。
・高崎の縁起ダルマは、養蚕の盛んだった群馬で、繭の豊作を願う農家がこぞって飾ったため普及した。
・かつては1年1回だったが、蚕種改良が進み年5回も出来るになったが、やはり天候や病気に左右され、「運虫」とも呼ばれた。
・飼育作業は主に女性達の手で行われ「蚕が始まると帯を解かない」といわれるほど、多忙をきわめた。また養蚕労働者として県内はもとより、新潟県や長野県からも女性達が来ていた。
・養蚕は蚕を育て繭を作らせることまでは同じでも、その繭を出荷する、繭から糸をとって出荷する、さなぎから蛾を羽化させ卵をとって蚕種として出荷する方法がある。繭での出荷は沼田など寒く交通の便の悪い地域で、糸のしての出荷は前橋などで、蚕種の生産は島村が盛んであった。
・蚕室は特に設けず普段生活している場所のタタミをあげ、板の間にし掃除をしてそこで飼った。その後2階を蚕室とする家が出来、赤城型や榛名型などの民家形式になった。総二階の瓦葺きで腰屋根付の大きな農家へと発展していった。
・佐波島村は利根川の中州の村で、洪水にたびたびみまわれ大きな被害を受けることがあったが、当時の主要交通手段である水運では交通の要所であった。
・昔から蚕種は自家製であったが、島村田島定儀などといった人達が研修を重ね、蚕種業を発展させ、優秀な種を開発した。その結果島村の種は日本全国はもとより、遠くヨーロッパへも輸出された。
そんな歴史的な背景があって、現在の島村の養蚕農家群が存在しているわけで、改めて過去というものの価値を認識したしだいです。今回VALO(NPO法人景観建築研究機構)にて島村の農家の調査が行われる事になり、私も参加しますが調査に当ってこの講演は大変参考になりました。
ありがとうございました。
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