このところ吾妻方面に行くことが多く、その折いつも
気になっていたのが、この山です。
中之条から吾妻渓谷に入る手前、右手に大きく岩肌を見せて
そびえています。
いつか登ってみたい山です。
今設計中のIn邸に行く途中にこの建物は建っています。
堂々たる欅の大木が印象的です。
このあたりの風景の象徴として、古くからここに建っています。
ご多分に漏れずこの農家も、同じ敷地内に新しい住宅が建っており、今はだれも
住んでいない様子です。
大きな欅も、この建物もいつまで残っていてくれるか・・・。
埼玉県神川町のいつも通る道からちょっと入った
ところに、こんな風景がありました。
古い火の見やぐら、消火栓と防火用水、長屋門、大きな欅。
しばらくぶりで通ってみましたら、ほとんどの木や建物がとりはらわれ
更地になっていました。
太田と桐生の仕事が続いてありました。
ちょうど両方の現場の中間のやまあいにこの建物はあります。
国道50号の雑踏から、ほんの数百メートルはいったところにこの別世界があります。
そんな雑踏すらなかった昔からずっと建っています。
当時の生活がそのままここにはあり、周辺にオーラを発しています。
門からひょっこり当時の人が出てきそうな、そんな雰囲気です。
あけましておめでとうございます。
いろいろなことがありますが、すべて良くなるための出来事
と考え、前向きに進んで行きたいと思います。
今年もどんな良い年になりますか楽しみです。
今年の年賀状は、二ノ宮製作所の工場建設現場に近い
秩父太田地区の農村風景をスケッチにしました。
山を背に、決して広くない農村集落の一角に昔ながらのたたずまいを残す
農家が幾つか散在しています。
近くを通るたびに懐かしい気持ちを起こさせてくれます。
いつか時間をみて、あちこち散策してみたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
桐生といえばこの有鄰館。
あまりにもおなじみすぎてちょっと近寄り難い気のする建物。
訪れた日は、あいにく休館の日で、人影も無くひっそりとした
建物のあいだを、木枯らしに落ち葉が舞っていました。
こういった歴史のある建築を前にして思うことは、
いまは主たる役目を終えてひっそりと建っていますが、
賑わったであろう往時の華やかさを思うとき、
単なる建物としてだけでなく、それを包む空間そのものが、
重みを持って訴えかけて来ます。
私たちが創る建物も、いつかそんな時がくるのでしょうか。
長野県旧中仙道茂田井宿です。
近くには、高速道路、バイパス道路、スーパーなどが建ち並ぶ地域の一角、ちょっとわき道にそれただけでタイムスリップしたような、そんな街並み茂田井宿。
造り酒屋や、普通の民家、白壁の蔵や塀、丁寧に積まれた石垣、用水路、それらすべてが中仙道が賑わったであろう当時のまま、ひっそりとたたずんでいます。
こんな街並みがよくぞ残っていてくれたと、そしてずっとここにそっと生きつづけて欲しいと願うばかりです。
赤城山西麓の斜面に位置するこの地に、江戸時代より伝わる農村歌舞伎舞台です。西斜面にありながら普段は野菜畑の客席は東向きで斜面とは逆勾配となって作られています。この配置がなんともこの建物の存在を高めている気がします。舞台のつくりは本格的で、床下のせり上がり装置や、まわり舞台装置など、当時の地元の大工永井さん(名前は調べます)の技術もさることながら、これを作ることの出来た人達のセンスと意気込みをひしひしと感じます。そして150年も前の人達がここで集う姿を思うときその文化度の高さに驚きます。そしてここに立ってこの建物を見たときに、なにか日本というより、世界に通じる雄大な存在を感じます。
東吾妻町かつての吾妻東村は、草津や中之条に行く際の日陰道ですが、そこを通るときに楽しみはこの民家です。これを見るとああ変わらずに今日も建っていてくれたなあ、とほっとします。それを維持している大変さはその方にしかわかりませんが、私たちにとってこの民家はあの付近全体の象徴です。ずっと建ち続けていることを願うばかりです。
レンガを一つひとつ積み上げた壁面に、堅牢な鉄の扉の
開閉する窓がついています。窓の向こうには当時のままの
時間がとどまっているような奥行きがあります。
そんな遥かな時間の感触を、レンガの1枚1枚が色づけしてくれています。
それは、長い時間と暮らしの記憶の物語を、立ち止まった人にそっと伝えて
くれる語り部なのかもしれません。
文 原 佑典